飲食店を長年やっていて気がついたことがあります。
それは、
「忙しさ」を理由にあらゆるものを失ってきたことです。
飲食店ではたらく人の末路
飲食店は拘束時間が長く、1日を終える頃には疲労感でいっぱいになり、家に帰っても何もやる気力もありません。
「1日働いた」「疲れた」おかげで、「1日やった感」で充実しているかのように1日を終えます。
飲食店ではたらく人に、
「将来の夢は?」と聞くと、「いつか自分のお店を出したいです!」と魔法がかかったかのように全員同じ回答をします。
しかし、その「いつか」はほとんどの人には訪れません。
もちろん一部の人たちは独立して自分のお店を持つ人もいるでしょう。
ただ、ほとんど多くの人たちは、お店を持つことなく終わってしまい、若い頃に「いつか自分の店を」という夢すら、いつの間にかなくなっています。
私が見てきた飲食店の会社は、その「独立できるような一部の人」を集めようとします。
そして、多くの人たちは体が動くなったら、年をとったら、御役御免で会社から去っていきます。
きっと自分たちがはたらけなくなった時に、はじめて気が付くことでしょう。
それでは遅いのです。
私たちは、こどもの頃から無意識に他人と比較されながら生きてきました。
「いい大学に入りなさい」「いい会社に入りない」「たくさん稼ぎなさい」
常に他人と比較する価値観の中で、私たちは生きてきました。
他人と比較している限り、いくら稼いでも上には上がいていつまでたっても終わりがない、苦しい戦いを続けなければいけません。
お金はたいせつですが、しあわせになる為の手段でしかありません。
しあわせって、何だと思いますか?
しあわせを感じるこころを磨く
私が思う「しあわせ」とは、「こころとからだの健康」「人とのつながり」「希望」の3つがそろってはじめて「しあわせ」だと考えます。
からだは「食」でつくられた結果です。
飲食店ではたらいておきながら、「売れる」食についての研究はしても、自分のからだのことを考えた「食」はおろそかにしてきました。
からだが健康ではないのに、こころが健康になることはありえません。
「忙しさ」を理由にあらゆるものを犠牲にし、1番たいせつにしたいはずの「じぶん」を1番おろそかにしていたことに気がついたのです。
私たちの時間は有限です。私たちの命は有限です。
日々流れる1日という時間は、戻ることができない唯一の1日という時間のはずなのに流れてしまっているのです。
たいせつなものって失ってからはじめて気が付くとよく言われますが、健康や時間って失ってからはじめて気付くのでは遅いです。
時間をたいせつに過ごしたい。
家の掃除をしたり、洗濯して服をたたんだり、ごはんをつくったり……、効率ばかりが求められがちですが、私たちはその何気ない所作に手間暇かけて、じっくりと行って、その所作の時間ですらたいせつに過ごせる人でありたいです。
その時間ですら、私たちの命の時間です。
ささいなことにすら、手間暇かけて、たのしめるようになることが、「自分を大切にする」ことにつながっていきます。
「自分を大切にする」ことができて、はじめて家族を大切にでき、お客様を大切にでき、他人を大切にすることができるのです。
テマトジカン の名前の由来
「手間暇」の語源は、「手間」と「暇」。
「暇」とは「時間」のことです。
つまり、「手間暇」とは「手間と時間(テマトジカン )」。
私たちは、まだまだ日々の生活や仕事に追われている状態です。
その環境を変えていくのは、社会が変えていくのは、会社が変えていくのでも、上司が変えていくのでもありません。
私たち1人ひとりが、強い意思のもと変えていこうと行動していき、みんなで作り上げていくものだと思っています。
この仲間でみんなで、「しあわせ」を感じるこころを磨いて、手間暇かけて仕事を人生を自分たちの手で作り上げていきます。